逸品館メルマガ バックナンバー 034

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逸品館ショッピングカートメルマガ 2007.03.05
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今回の話題は「音楽的感動」です。音楽的な感動を初めて体験なされたのはいつ頃でいらっしゃいますか?音楽を聴いて初めて涙を流されたのは、小学生時代?それとも中学に入られてからでしょうか?私は、中学時代にフォークソングを聴いていたときだったと思います。もしかすると、小学生時代にディスニーの映画を観て涙を流していたかも知れませんが、一つ確かなことは、私が音楽を聴いて初めて涙を流したのは「生演奏」ではなく「オーディオから流れる音楽だった」ということです。生演奏とオーディオで聴く音楽では、聴いていた時間の長さがまったく違うのでフェアな比較ではないかも知れませんが、とにかく生演奏を聴いて涙を流した記憶は数えるほどしかありません。今までに音楽を聴いて流した涙の量は圧倒的に「オーディオから流れる音楽を聴いていたとき」が多いのです。

歌謡曲を聴き、JAZZを聴き、クラシックを聴き、あらゆる音楽を聴いて今までに沢山の感涙に噎んできました。純粋に音楽を楽しんでいたときではなく自分自身のオーディオセットの音が良くなったときにも涙を流しました。オーディオの音を聴きながら、オーデ
ィオで音楽を聴きながら、感極まって涙が流れたことは数知れません。今振り返れば私にとってのオーディオとは、そういう「音楽的な感動」を与えてくれると同時に「純粋に音が良くなった感動」も与えてくれる、いわば音楽を聴く道具であり、自分で演奏する楽器でもあったように思います。


自分自身のパーソナルなオーディオセット(といってもラジカセ程度でしたが)を手に入れた頃は、フォークソングばかり聴いていました。井上陽水にはじまり、吉田拓郎、泉谷しげる、5つの赤い風船、風、かぐや姫、大塚まさじ、はしだのりひこ、数え上げればきりがないほどのフォークソングを聴きました。一緒に歌いたくなってギターを買い、学校から帰るとすぐにギターを抱えて歌っていました。でも、彼らの中でそれを「生」で聴いたことがあるのは、井上陽水、忌野清志郎、奥田民生、来生たかお、くらいでしょうか?POPSでは、さらに少なく中ではピーボブライソンのライブが素晴らしかったことを覚えています。JAZZやクラシックにいたっては、古い録音を好んで聴いていた事もあって、それらを「生」で聴いた経験はほとんどありません。

にもかかわらず、初めて生で「井上陽水」を聴いたとき「まったく違和感がなかった」ことを覚えています。つまり、私がつたないオーディオセットで聴いていた「井上陽水」と始めて生で聴いた「井上陽水」には、まったくと言っていいほど差が感じられなかったのです。コンサートが終わって楽屋で井上陽水と言葉を交わしたときも、まるで旧知のような親しみを覚えこそすれ初めて合う人物とはまったく思えませんでした。それは、きっと彼らの音楽が「生演奏」でも「電気増幅=PA」を使っていることと無関係ではないはずです。なぜなら生演奏と言っても彼らのコンサートには、電気増幅器(いわゆるPA)が使われていて、歌声は「生」ではなく「スピーカー」を通して聞こえるからです。PAもオーディオも電気的に音を増幅して聴かせるという意味で違いはなく、違いがあるとすれば音源が「生」か?あるいは「録音」か?という違いだけなので「生演奏」と「オーディオで聴く演奏」がかなり似ていたとしても不思議はありません。このように歌謡曲では、オーディオと生演奏はほぼイコールです。イコールどころか3号館のような凄いオーディオセットで歌謡曲を聴けば、音質も感動も生演奏を大きく越えることも不可能ではありません。

 

しかし、スピーカーを使わず「生楽器」だけで演奏されるクラシックやJAZZはどうでしょう?中高域の透明度と圧倒的な伸びやかさ、弦のしなやかさと切れ味の鋭さ、ホールに満ちる極彩色のハーモニー。体を突き通すようなシンバルやトランペットの音、腹にずしんと響くバスドラムの音。それらすべてがオーディオで聴くよりも何倍も音質は素晴らしいのです。生演奏でストラドバリの音色にうっとりと聞き惚れた記憶を引きずったまま、オーディオから流れるストラドバリを聴いたら、その音色や美しさの違いに愕然とするでしょう。クラシックやJAZZでは「生楽器」のそれと「オーディオの音」には、かなり大きな差があるのです。最高にチューニングされたオーディオセットでもクラシックでは小編成の演奏でやっとかなり生に近いという印象が得られる程度で、交響曲では、音質ダイナミックレンジなどの音響特性で遙かに生演奏のS席の音質には及びません。

 

しかし、オーディオで聴くクラシックやJAZZが音質では劣っていても音楽的感動という意味では、生演奏と同等、あるいは生演奏をハッキリと越えることがあります。3号館のオーディオセットで古き良き時代の名演奏を聴けば、オーケストラの生演奏を聴きたいとは思わなくなります。カザルスの奏でる「無伴奏バッハ」を聴けば、現代演奏家の奏でるそれを聴いた時に「最高の名演奏をオーディオで再演した時」ほどの感動が得られなくても私は不思議だとは思いません。決して生演奏や現代音楽家を否定するわけではありませんが、誤解を恐れずに言うなら「オーディオで聴く音楽の方が生演奏よりも大きな感動を与えてくれる」私はそう確信しています。実際に冒頭にお話ししたように、音楽を聴いて流した涙の量の差がそれを裏付けているのです。

 

その私の経験がオーディオと生演奏を比較することはナンセンスだと主張するのです。菅野沖彦氏が「新レコード演奏家論」で展開されている「オーディオは、生演奏よりも音楽鑑賞に適している」という意見にまったく賛成です。極論を述べるならオーディオと生演奏の音を比較する必要もありません。生演奏とまったく違う音でオーディオセットが鳴っていたとしても「感動は伝わる」からです。そして、私がお伝えしたいと思う最も大切なことは、私のつたない音のオーディオセットから感じ取れた「演奏家の人柄」が生演奏を聴き、そして直接本人とお話をして確認できた「演奏家ご本人の人柄」とほとんど違いがなかったと言うことなのです。

 

菅野沖彦氏の言う「レコード演奏家=音楽を心から愛するオーディオの使い手」が出す音なら、使いこなすオーディオの音なら、音は違っていても演奏は正しく伝わります。例え生演奏より音が悪くても、演奏は正しく、深く伝わるのです。音質に頼ることなく「演奏の真実を伝えられる」それがオーディオの醍醐味であり真髄なのかも知れません。

 

オーディオの世界は深く不思議です。それでも自分自身の心をフェアに開き、音楽を真摯に深く再現する努力を続ければ、それは必ず素晴らしい感動と新たな人生の喜びをあなたに与えてくれはずなのです。

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